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<掲載作曲家(12名)>
滝廉太郎 本居長世 山田耕筰 成田為三 平井康三郎
中田喜直 團伊玖磨 大中恩 芥川也寸志 小林秀雄
山本直純 久石譲
【滝廉太郎(たきれんたろう)(1879-1903)】
15歳で東京音楽学校(現 東京藝術大学)へ入学し、本科を卒業した後、研究家へ進んで作曲とピアノ演奏でめきめきと才能を伸ばして行きました。
明治時代の前半に多くの翻訳唱歌が出来ましたが、日本語訳詞を無理にハメ込んだぎこちない歌が多く、日本人作曲家によるオリジナルの歌を望む声が高まっていました。
滝は最も早く、その要望に応えた作曲家と言えます。
【本居長世(もとおりながよ)(1885-1945)】
東京音楽学校本科を首席で卒業。
日本の伝統音楽の調査員補助として母校に残ります。
ピアニストを志しますが、指の怪我で断念しました。
【山田耕筰(やまだこうさく)(1886-1965)】
≪出身地≫東京 ≪作品≫赤とんぼ・兎のダンス・待ちぼうけ・この道
日本語の抑揚を活かしたメロディーで、多くの作品を残しました。
日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めます。
また、ニューヨークの、≪カーネギー・ホール≫で自作の管弦楽曲を演奏、≪ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団≫や、≪レニングラード・フィルハーモニー交響楽団≫等を指揮するなど国際的にも活動、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもあります。
【成田為三(なりたためぞう)(1893-1945)】
≪出身地≫秋田 ≪作品≫浜辺の歌・さくら
東京音楽学校(現 東京藝術大学)に入学。
在学中、ドイツから帰国したばかりの山田耕筰に教えを受けました。
当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普及を提唱し、輪唱曲集なども発行しました。
【平井康三郎(ひらいこうざぶろう)(1910-2002)】
東京音楽学校で教鞭を取る傍ら、作曲活動を行い、『平城山』や、『スキー』などを作曲しました。
その後、文部省教科書編纂委員として音楽教科書編纂等に携わっています。
【中田喜直(なかだよしなお)(1923-2000)】
晩年は日本童謡協会会長やフェリス女学院大学音楽学部教授、神戸山手女子短期大学音楽学科教授を務める傍ら、数多くの学校の校歌を作曲しました。
【團伊玖磨(だんいくま)(1924-2001)】
オペラ・交響曲から歌曲・童謡・映画音楽・放送音楽と、幅広いジャンルを手がけ、日本中国文化交流協会設立に関わりました。
【大中恩(おおなかめぐみ)(1924- )】
父親が教会のオルガニスト兼合唱指揮者であった事から歌を愛好するようになりました。
特に子供のための音楽をライフワークとし、現在も精力的な活動を続けています。
【芥川也寸志(あくたがわやすし)(1925-1989)】
芥川龍之介の三男。
快活で力強い作風と言われ、特に人気のある代表作に、『交響三章』『交響管絃楽のための音楽』『絃楽のための三楽章』などが挙げられます。
また映画音楽・放送音楽の分野でも、『八甲田山』『八つ墓村(野村芳太郎監督)』『赤穂浪士のテーマ』などが知られています。
【小林秀雄(こばやしひでお)(1931- )】
声楽作品(歌曲・合唱曲)及びピアノ曲を主に手がけ、特に、『落葉松(詩:野上彰)』が有名です。
【山本直純(やまもとなおずみ)(1932-2002)】
≪出身地≫東京 ≪作品≫1年生になったら・歌えバンバン
東京芸術大学作曲科に入学しますが、3年生終了後、指揮科へ転科します。
大学在学中からテレビや映画の分野に進出し、ポピュラーからクラシックまで幅広く作曲活動を行います。
同時に、テレビなどを通したクラシック音楽の普及・大衆化に力を注ぎました。
【久石譲(ひさいしじょう)(1950- )】
5歳の時にヴァイオリンを習い始めます。
幼少から、高校教師であった父に連れられて沢山の映画を見ていました。
「その事が現在の仕事に強く影響を与えている」と後に語っています。
元々の音楽スタイルは、【ミニマル・ミュージック】と呼ばれる、音の動きを最小限に抑え、パターン化された音型を反復させる音楽でした。
『風の谷のナウシカ』の音楽を担当した事によって、一躍、脚光を浴びる事になります。